山形県上杉家で明治時代初期の首里城の写真を発見!山形県と沖縄県の以外な関係とは!?

(上杉茂憲が撮影した明治時代の久慶門手前右 他)
出典:山形県上杉博物館提供

明治期に沖縄県令(県知事)として派遣されていた上杉茂憲の一団が撮影したとみられる首里城内に写真が公開されました。

沖縄戦前の沖縄を描写した写真は少なく、首里城内を撮影した写真は特に珍しいらしい。

久慶門の上の木造の小屋を捉えた初めての写真とあって専門家の中からも興奮の声が上がっているらしい。

Sponsored Link



 

今では観光地として整備されている首里城。

写真を見ると手前にソテツが多く群生していたり、奥は原生林に囲まれ、私達には想像もつかない手つかずの沖縄が確認できます。

この写真を見て県北部にある大石林山の自然の造形を思い浮かべたのは私だけではないでしょう。

本当の琉球王国を見た気がしました。

今後はこの写真を元に戦火で被害のあった首里城全体の復元に向けて動き出すかもしれませんね。

 

上杉茂憲

写真を撮影した「上杉茂憲」という人物について触れておきましょう。


この方が上杉茂憲(うえすぎもちのり)

出羽米沢藩13代最後の藩主。1869年(明治2年)の版籍奉還により米沢藩知事となり、その2年後、廃藩置県により東京へ。

イギリスへの留学を経て1881年(明治14年)に沖縄県令(知事)へ配置されます。

就任後は短期間で沖縄本島を視察。

お分かりの通り交通事情は今とは比べ物にならないですね。

そらくは殆どが徒歩だったのではないかと。

 

その結果、士族である地方役人の怠慢と恣意的な税徴収で私服を肥やす姿を目の当たりにして、これを打破するため上京し上申書を提出する。

つまり、村民から税金をピンハネする地方役人があまりにもひどすぎる。沖縄の改革にはまず地方役人の一掃が必要だと政府に訴えたのです。

政府もその訴に沿ったのか、その後、政府高官の尾崎三良と共に沖縄へ立たせます。

茂憲はこの帰沖の際に今まで東京に残していた家族を伴い、沖縄へ向かいます。

この時、茂憲には並々なら決意があったのでないでしょうか。

 

その決意とは裏腹に茂憲の訴えは意に捉えられていませんでした。

実は、その訴えと政策は政府の意向と反し、且つ、急進的過ぎるとして黙殺されていたのです。

そのため、政府は茂憲更迭へ動き出していたのです。

 

茂憲帰沖時に同行した政府高官の尾崎三良が離島視察の後、東京に戻りこう現状を報告します。

「上杉県令(知事)が民心を惑わしている」

つまり、茂憲の政策が県民を混乱させていると報告したのです。

 

結局、政府の策略にはめられた上杉茂憲は在職2年で沖縄県令を罷免されてしまう事となる。

 

ちなみに沖縄で生まれた四女の名前は「琉」となずけている。

 

それほど沖縄に思いを強く寄せていたのですね。

 

茂憲は沖縄県令赴任時に「信頼される県令、信頼される県庁でなければならない」とし各村への訪問はもちろん、産業の発展と人材育成が要として5人の県民を東京へ留学させています。

また、県内の各学校へ奨学金や文房具の寄付を私費で行うなど、沖縄県に対し大きな私財を投じています。

こうした献身的な行動や熱意も結局は国の思惑で免失され邪魔者扱いされてしまう。

なんだろうか。今起きておる沖縄県の問題も同じような背景があるのではないか。

結局は国の思惑やストーリーが引かれていて、それにそぐわない案件は消すか後回し。

自分たちの答えに近づくまでは手を変え品を変えなのである。

日本の精神文化。いい所ももちろんある。

おもてなし、思いやり、もったいいない、察する、など。

それでも正しい事を声高に訴え、実行できるのは権力者でなければならいのである。

 

個人的な考えになるが、沖縄の基地を無くせなんて思っていない。

抑止力、専守防衛、極東有事。

全てにおいて必要だと私は思う。

ただそのために一般市民を巻き込んではいけないと、それだけは思う。

戦争に国民を巻き込んではいけない。それと一緒だから。

 

沖縄には二重統治の時代が数回ある。

いや、もしかしたら今でも二重統治なのかもしれない。

 

この歴史的写真の発見を契機にもう一度沖縄を見直そう。

歴史に学ぶべきなんだと。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

記事はあくまでも個人的見解と思想です。

他方、ご意見があるかと思いますがご容赦下さい。

 

次回も沖縄の情報をお届けします。

Sponsored Link